2024年2023年2022年2021年2020年

2024.1 追加

「八女地方伝承俚謡誌」

 著者 国武久義

 昭和53年5月発行 


 一つの時代が確実に終焉しつつある。いわゆる「俚謡」と呼ばれ、その土地の気候・風土・人情・風俗によってはぐくみ育てられた唄の数々が人々の口の端にのぼらなくなって久しい。長い年月、語りつがれ唄いつがれたこれらの唄もいつの間にか忘れられ、永遠に虚無の彼方へと押しやられてしまった。
 「わらべ唄」や「茶つみ唄」「木びき唄」「地形搗唄」などの労作唄が生活の一部として存在していた時代が、今日よりさほど遠くさかのぼらない日々に確かにあった。
 しかし、産業経済の発展や社会構造の変移、マスコミの発達にともなって、地方の伝統的な生活様式や風俗習慣などが急速に形を変え姿を消していった中で、ひとり「俚謡」のみが例外であろうはずがない。唄をうたいながら作業をすすめる時代はもう終わったのである。
 私は消えゆきつつあるこれらの唄を愛惜する。郷土の文化財や歴史が見なおされている現今、無形であるが郷土の貴重な財産ともいえるこれらの「俚謡」を採集し、以って八女地方の民俗資料の一環としたいと切に願うものである。
 著者「はじめに」より

2024.1 追加

「歌集 こちら晴天なり」

 著者 倉ノ下富美子

 令和5年12月発行 


 詠んでみたいことはいっぱいあります。でも、自分の気持ちをどんな言葉でうまく書けばいいのか、短歌の世界は何一つ分からないのです。毎月二首、出すには出すのですが、短冊には赤ペンがぴっしり。恥ずかしさと悔しさで、机の下に隠れて泣きたい気持ちです。出席していても、みんなから笑われているようで、机をひっくり返して帰ろうと何回思ったことか。来月は絶対やめると思うことはしばしばでした。山口先生に「もうやめます」と伝えると、「あと一回書いてきなさい。はじめは誰もうなくいかないものです」と言われるのです。出席すると、「出来る、出来る」「ここの言葉が効いているよ」と歌友の方々からも励まされます。
 それからどうしたことでしょうか、月末にもなると孫たちの言葉や姿などを、言葉にしながら指を折っている自分がいるではありませんか。歌友の方々の笑顔もあり、短歌が少しずつ楽しくなってきたのです。「ああ、あの時やめないでよかった」「短歌と出会えてよかった」と、今は亡き山口先生にお伝えしたい気持ちでいっぱいです。
 それから今日まで、短歌会に出席し、歌友の方々との交流も楽しくなり、私の短歌も少しは短歌らしくなってきたように思います。それから次第に私なりに積極的になり、「孫たちの成長を活字にして残しておきたい」と思うようになりました。これが、この歌集なのです。私の率直な気持ちを孫たちはどういう思いで読んでくれるでしょうか。

2024.1 追加

「久留米藩財政史」

 著者 今方重一

 昭和4年5月発行 


 著者の今方先生は昭和五十一年八月、『久留米藩政治経済史年表』を公刊された。古稀をかなり過ぎられた時期の著作で、先生の変わらない学究的意欲と地味な努力とに敬服したものである。この書は幸い、旧久留米藩域はもちろん、地域外の多くの研究者にも好評で迎えられ、いまなお利用度の高い書である。
 しかし先生にとっては、この『年表』が久留米藩政研究の終着点ではなかった。もともと近世の財政・経済部門に深い関心をもたれ、あいついで体系的藩財政史研究に没頭され始めた。
 以後、手元に不足する資料調査のため、市民図書館に足を運ばれることも多く、体調に合わせてこつこつと執筆を続けられ、平成元年春、大学ノート数冊の荒原稿に纒められ、翌年秋に完全原稿が成った。『年表』刊行から十四年目の労作で、まさに先生のよわい九十歳、私ら普通人のまねし得るものでなく、後輩を叱咤激励するところ多大である。
 本書は、初代有馬豊氏以後から藩末第十一代頼咸までの藩財政の流れをほぼ各治世期ごとに記述されているが、内容・形式は、重要な史料の適切な引用と著者の理解をこれに組み合わせる体のものとなっている。
「刊行に寄せて」より一部抜萃

2024.1 追加

「向陵駒場寮歌集」

 発行 詠歸寮歌集

 発刊 詠歸会

 平成22年4月発行 


 本寮歌集は、昭和三十一年東大駒場寮寮歌集、平成十三年詠歸曾向陵駒場寮歌集、平成十四年向陵駒場寮歌集拾遺にその淵源を辿ることができるものであることに鑑み、それぞれの序文・あとがき等を、参考資料として巻末に付しました。
 一高では、寮歌を百曲も歌っているようでは落第するとの俗説もあったやに聞いていますが、もはや、何十曲歌おうとも落第する心配はありません。本書を十二分に活用され、オンチどもが夢のあとを後世にとどめていただければ、これにすぐる喜びはありません。

2024.1 追加

「筑後川農業水利誌」

 発刊 九州農政局

 昭和51年8月発行 


 B5判654頁1.7㎏の大作
 筑後川(その呼称は寛永15年・1638年の幕府命に始まる)は、九州の屋根九重山、阿蘇外輪山に源を発し途中大小の河川を合わせ、筑紫平野を貫流して有明海に注ぐ九州第一の河川である。
 坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と並んで古くから筑紫次郎と愛称されるわが国の代表的な河川でもある。
 また、筑後川は"母なる川"としての一面と"暴れ川"としての一面の二つの顔をもち、遠い昔から良きにつけ悪しきにつけ、流域住民と深いかかわりをもってきた。
 筑後川流域に広がる筑紫平野は現在もその恩恵を受け継ぎ、九州屈指の穀倉地帯となっていることは、広く世人の知るところである。
 筑後川の水資源開発が緊要の課題となり、農業水利についても大幅な改良が行われようとしている今日、これから先人達の不屈かつ言語に絶する努力の賜である農業水利施設、並びに水にかかわる各種の慣行・権利・義務更には風俗・習慣などについてその歴史的事実を掘り起こし、これらを体系的に整理しておくことは極めて意義あることと思い、本誌を編集し世に送ることとした。
 本誌が今後の筑後川水系の水資源開発に当たって大いに活用され、多少なりとも資するところがあれば幸いである。
「刊行にあたって」より一部抜萃

2024.1 追加

「久留米藩政治経済史年表」

 著者 今方重一

 昭和51年8月発行 


 藩政末期に出た久留米藩士戸田信一は典令や故事に明るく明善校出役、御祐筆格の人で、内命をうけて米府年表を編集した。初代豊氏から10代頼永まで歴代の藩主毎にまとめた記録である。年次的に重要事項をあげると共にそれに関連する記事を引用併記し詳細を極めている。信一の子幹吉は江府の中・小姓からはじめ幕末維新の混乱期の藩政に関係し多方面に活躍した人である。父の米府年表や村上量弘の旧制調書などを根拠とし広く材料を求めて久留米小史22巻を編述した。時に明治23年、彼が61才の時である。此の書は管内の地誌・政治・財政・法制・君臣言行等多方面に亘り系統的にかかれている。3・4・5巻は米府年表と同様藩主毎にまとめ最後の11代頼咸に及ぶ年譜風な記述である。はじめに有馬前史を略記し、巻末に有馬全史を通観して論評を加えている。
 筆者はたまたま久留米に職を奉じ、この地を人生最後の休息地にえらんだ。歴史の一学徒として今は郷土となった此の地の歴史を或程度は知りたいと思った。戸田が小史を撰んだ年配の頃から彼及び彼の父の労作を読み耽り、心から敬服したので何度も抜書をしてみた。両書共政治経済的な記事が多いけれども更に深く経済面や御用商人と藩財政との関連等を克明に記録したものに石原為平の石原家記がある。元和7年から宝永13年の記事を主とし、明和・安永の事項を追加している。
 以上の3書で久留米藩の大概を知ることができるが何れも幕末から維新にかけての歴史が欠けていたり又少なすぎたりしている。これを補うものに加藤田平八郎の加藤田日記、本庄一行の久留米藩一夕譚、石本猪平の諸国見聞がある。皆その時代の人々で生々と実感があふれている。
 はじめ自分の備忘のために抜書をしていたが、これらの史料に教えられて集収整理し、又別掲の参考文献などを読んでいくうちに史料的年表としてまとめることを考え出来上ったものがこの書である。自分のたどってきた道を考えながら書いたもので、一般年表としての役目をすると共に藩史研究の手引ともなれば幸である。
著者「はしがき」より一部抜萃

2024.1 追加

「久留米人物誌」

 著者 篠原正一

 昭和56年8月発行 


 B5判785頁1.6kgの大作
 篤学の郷土史家篠原正一先生の畢生の大著『久留米人物誌』がこのたび刊行されましたことは、郷土にとって、画期的な大事業の完成ということであり、誠に欣快にたえません。
 篠原正一先生は久留米の庄島の御出身であります。先生の郷土史に関する、これまでの多数の業蹟、『久留米めぐり』『三井めぐり』『浮羽めぐり』『三潴柳河めぐり』『筑後の年中行事十二ヶ月』『筑後の絵馬(未刊)』などはその著作の一部に過ぎません。たとえば青木繁を始め久留米出身の画家の逸事などをふくめ、数々の研究も発表されておられます。
 『久留米人物誌』はそれらの研究の余滴の中から、先生の、資料にもとづく郷土の人物の列伝をまとめられたものであります。古代から現代までの総数三、七〇〇名をこす故人をとりあげ、それらのすべては先生独自の郷土史観に基づく価値判断によるものと思います。
 これまでに、久留米をふくむ筑後近在の商工名鑑的な名士録、あるいは紳士録などはしばしば出版されています。けれども、それらはいずれも画一的な資料に基づく類形的な内容をもつものにすぎません。人名登載の基準や目的による価値判断の明確さなど、近代的な様式で統一された人名録も、戦後の郷土を対象にした幾冊かのものが発行されております。
 けれども、篠原正一先生の『久留米人物誌』は、それから既刊の著者とは全く趣を異にした大著であり、然もそれは歴史的な実証に基づく先生の史観によって裏づけされたものであります。
 この本の完成によって、始めて『自分誌』が日の目を見たわけであります。この大著がその真価を発揮するのは、後続の諸学のこれからの研究如何によるものであることも忘れてはならないと思います。
岸田勉 「刊行によせて」より一部抜萃

2024.1 追加

「全国諸会社役員録」

 明治28年9月発行

 昭和59年9月復刻


 このたび復刻の『日本全国諸会社役員録』は、その書誌学的面について私は無知であるが、日清戦争直後の近代企業勃興期の真只中に公刊されたもので、各企業の役員名・設立年月・資本金その他の記載があり、激しい日本産業資本形成の状況を全国各地の具体的姿で一瞥できる内容となっている。換言すれば、私たちが関わっている地方史研究にはもちろん、一般的明治経済史を見る上でも興味深く、便宜な書である。
 以上のことから、本書刊行の意義・役割は申すまでもなく、さらには、昨今各地で進行中の市町村史編さんのためにも機を得た企画と言ってよいと思う。ここに改めて鶴久氏の学問的「義挙」に敬意と感謝の意を表するものである。
久留米郷土研究会代表理事
         古賀幸雄

2024.1 追加

「戦没五十周年軍艦千歳」

 著者 軍艦千歳会

 平成6年10月発行


 平成六年十月二十五日は、軍艦千歳関係者にとって忘れる事の出来ない痛恨の思い出がよみがえってまいります。
 敗戦の色濃い昭和十九年十月中旬に、起死回生の捷一号作戦発令により瀬戸内海での諸訓練を中止、軍艦千歳は小沢中将率いる十七隻の一艦として豊後水道を南下、レイテ湾突入の栗田、西村、志摩三艦隊の作戦を容易にするためフィリピン、東方海面に進出、アメリカ大機動艦隊を北上させ、囮作戦の目的は果たしたものの、私達の乗艦千歳は、敵艦載機の集中攻撃をうけ、満身創痍となって、ついにルソン島エンガノ岬沖東方二〇〇浬の八千五百メートルの深い海底に沈没、千三百名の乗員の内艦長以下千名の乗組勇士は、艦と運命を共にいたしました。時に昭和十九年十月二十五日午前九時三十七分、今日は、千歳沈没から満五十年の命日であります。
 辛うじて生き残った私達日本人は、戦後の苦しい生活や、辛く厳しい環境から立ち上がり、平和で豊かな毎日を送っている今日でありますが、遺族の方も、千歳関係者も一人減り、二人減り大変心細くなり、ここに、五十周年記念誌を編纂して後世に伝えたいとの念願から、遺族・生存者の皆様より手記を募集して、ようやく発行の運びとなりました。
 誤字、脱字、校正の不手際など、不都合なことや見苦しい点も多々あるとおもいますが、何卒お許し下さるようお願い申し上げます。 
 渡辺守「まえがき」より 

2024.1 追加

「洗心志気録

 作家小島直記先生を偲ぶ文集」

 平成21年9月発行


 初秋月夜に小島直記先生の訃報を聴き、早や一周忌を迎えます。この日の流れの間に、先生追悼のかたちを如何にし、先生の情味あふれるご厚誼におこたえすべきか。おなじ思いの方々、発起、追悼、偲ぶ文集の刊行もここにできましたことに感謝の意を表します。
 こうした企画の過程で、逗子にゆかり夫人を、小川勲氏と同道、お訪ねした折に、奥さまに宛られた婚前の先生の書簡を見せていただきました。まさに青春、みずみずしい薫風を想わせるような感情あふれる文章に魅了されました。そのなかの一文「三四郎池のほとりにて」を、お許しを得て収録。また先生晩年の執筆"風の行方"の八女同郷関係の抄録を掲載できましたのは、『致知』出版社社長、藤尾秀昭氏の快諾によるものです。そして多くの皆さまの寄稿、東兄弟印刷所の尽力により刊行の運びとなりました。
椎窓猛「あとがき」より抜萃

2024.1 追加

「騰越玉砕記」

 著者 吉野孝公

 昭和54年8月発行


 吉野はその背中に、おびただしい数の死者の影をひきずって歩く。私もまた戦場という死の國から行程を逆にとって生きている。ふたりが親友でなかろう筈はない。戦前、かれは庭師見習であり、私は医学生であった。おなじ久留米の町に住みながら、袖摺り合うこともなかった。あれは昭和二一年のむんむん暑い白晝のこと、吉野がぬつと眼の前にあらわれたときの光景を、私は生涯忘れないだろう。中国雲南戦線からの生還者十数名が、ふるさとに焼けのこった某家で、戦後を歩きだすためのはじめての会合をもった。そこへかれが、修羅場をくぐりぬけたばかりの傷だらけの身体で、円座のまん中にどっかと座った。全員戦死と思っていた雲南省騰越城からの奇しき脱出と聞き、一せいに「おう」と呻いたものである。驚愕ともつかず、感嘆ともつかず。
 その日以来、かれは私のもっとも心ゆるした友人のひとりとなった。
 丸山豊 まえがき「わが友吉野、その裸の戦記」より一部抜萃

2024.1 追加

「教学八女百年」

 著者 大石喜八郎

 平成4年3月発行


 このたびの上梓については、いつも心にかかっていたことだったので、今、それを終えてホッとしています。  それは、教職を私が退職するときの一つの理由だったからです。約束が果たせて歓びでいっぱいです。
 小さな、小さな労作ですが、すこしはふるさとのあなたのお役にたつと思います。
 これまでの八女の教育史については、先覚諸賢の手になる学制頒布五〇年記念号『八女郡教育五十年沿革要項』(八女郡役所編、編纂委員宮園萬蔵・藤本軍蔵・稲富廣吉、大正十二年一月六日刊)という書誌が遺されています。この書誌を承けて、教育一〇〇年という史的区切りを是が非でもまとめておきたかったのです。
 このことが、未来の『教育八女一五〇年史』を産むことにつながると信じたからです。その土台石になれば幸せです。 また、そう念じています。
 「他」のために私が生涯をかけ奉仕できることと言えば、この分野の労作を通してだけしかその可能性がないと考えるのです。
 こころよく 我に働く 仕事あれ  それを仕遂げて 死なんと思ふ(啄木)
 ところで、生来浅学非才のため、本編にはいたるところ不備な点も多かろうと予想いたします。どうぞ、ご容赦いただきたいと願うばかりです。
 ホンとに、心をこめて編集いたしました。
 この書が、ふるさとのあすの教育の道しるべとして、ちょっとでもお役にたつことがあれば―それで満足です。
 著者「あとがき」より一部抜萃。