2024年2023年2022年2021年2020年

2021.12 追加

「大正生まれの父からのメッセージ」

 著者 樋口要

 

 

 97歳の老医の人生史。
「親思う心にまさる親心」は今も昔も変わらない。それが優秀な子であれば親の期待は更にふくらむ。著者は幼少時より学業抜群、スポーツ万能であった。
 九州大学外科に進む息子要に父林太郎が「俺の気持ちだ」と言って渡した書幹でもその一端を知ることができる。達筆難解な箇所もあるが要約すると「君のこれまでの奮闘は自分にとって大いなる喜びである。これを機に父も老いを捨て青春の意気に立ち返る。門出を祝福し心から激励する。要よ粗略に思うなかれ」。著者はこれを額装して部屋に掛け生涯の道標にした。
 幼少期はわんぱく、小学時はけんかに明け暮れたが小学4年の新学期ふとした父親の教えで目覚め、悪ガキでもやれば出来るという自信が生まれ一生の指針となる。以降は勉学に励み、開院後は女医の妻と整形外科医院の経営に専念、忙中閑を見出しては寸暇を惜しんで数々の趣味を楽しんでいる。
 最後まで続けた水墨画と陶芸の作品は妻の絵画とともに樋口画廊に収められている。
 人生は一度限り、時間はどんどん過ぎていく。一日、一時間を無駄にすることなく生きてほしい、全力で学び、人のために働き、趣味を楽しみ、人生を知り尽くした人の箴言である。

2021.12 追加

「年賀本 平成4年版」

 人生史サークル 黄櫨の会

 

 

 9年目を迎えたこの本には面白い特徴がある。一つは執筆者の年令と地域の多様さである。内容から推測するに30代から80代までの人が書いているようである。それもホームの福岡県のみならず中国、関東、甲信越の人が書いているのである。当然読者は更に広がり全国に及んでいることだろう。しかも僅か34名の小冊子のために毎年、麻生、安部氏(政界の麻生、安倍さんとは違います)お二人のまえがきが並ぶとは何とも豪勢である。特徴の締めは創刊の主旨である。時代の流れで年賀状が年々減っていると聞く。今年届いた年賀状にも隅の方に高齢を理由に今年で年賀状を打ち止めにすると書き添えた人がいた。次第に友人、知人が減る中で、年に一度の賀状書きの煩わしさから、喜寿にも満たない人が自ら社会との接点を狭めるとは何ともったいないことか。人生百年を生き抜くには心身共に健康を保たねばならない。時代に取り残されないために、年に数冊の本を読み、数名の新しい友人を作る努力が必要である。年賀本に寄稿された34名の方はきっとそれを実践され、心豊かな日々を楽しまれているに違いない。年の始めに心静かに読みたい一冊である。

2021.12 追加

「黄櫨第72号」

 人生史サークル 黄櫨の会

 

 

 96歳、生気漲るお二人の原稿を筆頭に、生き方上手な36名の原稿が並んでいる。皆さん夢と目標を持って生き生きとした暮らしぶりが目に浮かぶ。わが国では遠からず65歳以上の3人に1人が認知症を発症するという予測が出ている。黄櫨の会で学ばれる会員さんには無用の心配だろうが、長く生きていると病との付き合い方も重要になってくる。過去の黄櫨誌の中で、大病を克服した会員さんの闘病記を興味深く拝読させてもらい、ずい分参考になった。今回掲載された70歳を越えて腎移植に成功して透析生活から解放され、3年目にして穂高登頂を果たした会員さんの体験記は人気テレビドラマ「ドクターX」を彷彿とさせるものである。日本の透析患者は約34万人(2018年末)というがきっと多くの患者さんに勇気と希望を与えるものである。文字の力をしみじみと感じさせる本である。ドナーを引き受けられた奥様の夫婦愛に敬意を表しお二人に安穏な日々が続くことを祈る。

2021.09 追加

「80年の傘の下」

 著者 山村知世夫

 

 

 タイトル通り著者傘寿記念の上梓。私前厄の年である。以来18年座右の書として使わせてもらっている。この本は面白い。そして生きていく上で大変役に立つ。転ばぬ先の杖、人生の指南書である。明善校から国鉄入社、エリート養成コース、合格率1%の超難関、東京鉄道教習所専門部に一発合格しているが、頭脳明晰、若者の正義感旺盛ゆえに組合活動に入りパージを受け国鉄を去っている。その後松鵜(及びハイネル)種鶏場、日本アーバーエーカー(株)に勤務し両社でPR誌や社内報の編集に関与した。
 前がたりに「適当なところを拾い読みしてください」と謙遜しているが、卓越した文才と博学全開の文章は読み手に新鮮なインパクトを与える。どこを開いても気づかされ敬服させられる内容である。多彩な経歴を持ち地域のお世話をしておられたが決してそれを表に出さず静かに見守っておられる優しいお顔が懐かしい。
「仕事と遊びどちらが大事か」
「TIME IS MONEY」でなく「TIME IS LIFE」である
 肝に銘じておきます。

2021.08 追加

「二ツ河保育園 創立70周年記念誌」

 柳川市三橋町木元

 

 

 「三つ子の魂百まで」という。保育教育の仕事は人としての基盤作りに直結するだけに重要な任務である。その子にとっては両親以外に最初に出合う師である。この時、いい保育士、いい保育環境に巡り合う子は幸である。
 沖端川とクリークに囲まれた北原白秋の生誕地水郷柳川の豊かな自然環境の中に二ツ河保育園はある。
 先代は造り酒屋であった名残りを宿す蔵屋敷風、漆喰、ナマコ壁、瓦茸き園舎はひときわ重厚である。
 この記念誌の多くの紙面は「二ツ河保育園物語」というタイトルで木下昭次郎事務長が150年余に亘る創業家木下の起こりから草創期、地場の強みを生かすべく各種事業への挑戦、戦争から戦後の混乱と苦難の時代、そして新たな保育事業の立ち上げを物語風にまとめている。木下家を中心とする柳川地方の社会、経済、暮らしの変遷を知ることができて興味深い。
 三橋町で要職を務めた初代園長木下小一郎氏の先見性と決断、29歳で父小一郎氏の志を継いだ一人娘木下久美子現園長の頑張りと経営手腕は見事である。
 すでに法人化、施設の拡充、後継者の育成という3つの大仕事をやり遂げている。核家族化の進行により子どもを取り巻く環境の変化に伴い保育園の責任もますます複雑かつ重要になってくる。70周年を機に二ツ河保育園の保育目標である「地域社会の未来をリードする、知的でたくましい二ツ河っ子の育成」を大切にしつつ80周年、100周年を目指して力強く前進することが期待される。

2021.08 追加

「バイオグラフィカルストーリー 池田匀 自叙伝」

 著者 池田匀

 

 

 76度目の終戦記念日はコロナ禍、記録的な大雨特別警報の中迎えた。
この時期マスコミは競って戦争に関する特別企画を組む。
敗戦前後の混乱から昭和三十年代の復興、成長期を貧しくも逞しく、力を合せて未来に向かって駆け抜けた人たちの姿は、同時代に生きた一人として共感を持って毎年興味深く観ている。 
 さてこの本の著者池田匀先生も青年期に戦争の時代を体験しておられる。昭和37年開院の頃は先ず衣・食・住確保の時代である。住み込みの看護婦さんたちも家族の一員であった。今と違い医療機器も十分でない中、24時間体制の産科医の心身の疲労、無事に元気な赤ちゃんを取り上げた時のスタッフの喜びなど読み手に伝わってくる。開院50年の間に一体何人の日本の宝が池田先生の手で誕生しただろうか。50年前池田クリニックで産声を上げた赤ちゃんが今や社会の色んな分野で中核となって活躍する年頃。命は次の世代へ確実に引き継がれている。医師の醍醐味、医師冥利、これに勝る喜びはあるまい。幼少期、青年期、医学生時代の様々な体験、六十歳の時再起不能と噂された交通事故から奇跡の現場復帰という人生ドラマ。文化、芸能分野の造詣も深い。それらがほどよくミックスされて温厚で慈愛溢れる先生があるのだろう。
 産科医としての使命感と町の開業医としての矜持を漂わせる風貌は、お医者様と呼ぶにふさわしい昭和を生きた尊顔である。そんな先生の一代記。一読をおすすめする。

2021.08 追加

「黄櫨第71号」

 人生史サークル 黄櫨の会

 

 

 70号という節目をクリアした会員がそれぞれの気概をもってスタートした。この号のトピックは高齢会員の頑張りだろう。96歳の2名を筆頭に90歳越えカルテットの力作に釘付けされた。これまでしっかりとした人生を歩いてきた4名が今なおアグレッシブに生きる姿が目に浮かぶ。
サミュエル・ウルマンが70代で書いた青春の一節に「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に初めて老いがくる。」とある。黄櫨では毎号、人間幾つになっても夢と希望を失わず絶えず新しい目標に向かって努力することの大切さを教えられる。

2021.08 追加

「養子お父ちゃん子育て奮闘記」

 著者 木下昭次郎

 

 

 失礼を承知で書かせてもらえば、還暦を迎えたばかりの若造が喜寿を前にしたおじさんを唸らせるほどしっかりした人生設計をしているのに感服したことです。筆者は若い頃身につけた宗教観と哲学による確固たる信念をお持ちの人であろう。文中豊富なうんちくが披瀝されており読むことが即学びになる。結婚33年間の木下家の日々をあたかもドキュメントで観ている気分になった。
「米糖3合あるなら養子に行くな」
「もと造り酒屋のひとり娘、財産ひとり占め」
 若き日の筆者の心の葛藤も今は昔話となった。跡継ぎの育成という重荷から解放され、課題である木下家先人の顕彰、二ツ河保育園の継続という次の責務にも目途をつけた筆者の余裕と自負、矜恃が感じられる。読み終えてほのぼのとさせられる良書である。
 蛇足ながら、かくも精力的な旦那さんを見守る、かつての深窓の令嬢の手綱さばきも見事であることを付け加えておきたい。

2021.06 追加

「猩猩亭日乗」

 著者 中岡義

 

 

 当館所蔵の自分史では五指に入る大作である。前から、途中から、後から、頁を繰ってみるがボリュームと内容からとても凡人の手に負えるものではないと悟った。筆者の軌跡とこの本に込めたエネルギーを紹介するには力不足です。どの頁を切り取っても後々歴史的に貴重な資料になることは間違いありません。従って筆者のあとがきを抜粋して掲載することでお許し願います。
■3年前自分史の編纂に着手してから2021年6月17日の刊行に間に合わせるため作業に指一本触れなかった日はない。それが生き甲斐であり、最大の懸念はこちらが先に逝ってしまわないかとの思いでした。
■お陰様でなんとか間に合わせることができました。だましだまし従わせた自分の体に感謝あるのみです。あれもこれも欲張り400頁を超える大冊になってしまいました。
■加えてもう1つ感謝するとすればコロナ禍のメリットです。「stay home」を強要され「不要不急」を取混ぜ外出を「自粛」せよと言われれば安全なのは「農耕接触」ぐらいが精々でパソコンを相手にするのがもっぱら、本書作りにはコロナさまさまでした。
■さて予定通り刊行できて張合いがなくなり、これからの日常をどうやって過ごすかって。続編に色気を持ったりしてからに。ウソ。うそ。
釈迦に説法ながら当館からお礼を込めて一言。
 人生百年時代は社会に遅れないため20代、50代、70代と3回大学に入ったつもりで新しい知識を吸収し90歳まで社会の役に立たなければなりません。筆者はまだ82歳、残り時間は十分過ぎるほどあります。続編を鶴首してお待ちしています。  

2021.06 追加

「球磨村79集落巡り」

 発行者 球磨村

 

 

 球磨村には若い頃は鮎を狙って夜行軍で遠征し、社会人になっては社員旅行で数回訪れている。それだけに令和2年7月、九州豪雨で球磨川の氾濫による被害の大きさを目にして大きな衝撃を受けた。緑豊かな集落、人情厚い人々、滔々と流れる球磨川は一体いつ蘇るのか──。絶えず胸奥にあったが、このたび球磨の山里の暮らしや魅力を一冊にまとめたガイド本を手にして、私の心配は杞憂だったことを知った。自然の治癒力、人間の底力は偉大なもので、力強く復興の歩みを続けていたのだ。
 本誌には球磨村79集落の、集落名の由来や歴史、文化などを紹介している。不思議なことに村人の姓(名字)と集落の名前が一致する集落が65もある。そこには集落と同じ名字の人々が暮らしている。見開きの各ページ毎に美しい集落風景や地図をふんだんに配置されており、すぐにも集落探訪に出かけたくなる衝動にかられる。取材・編集スタッフの苦労が偲ばれる労作である。

2021.06 追加

「なんでバイバイするとやか」

 ごとう ひろし 文

 なす まさひこ 絵

 

 

 特別支援学校にかようてつお君は、いつもバイバイしながらよってくる。
「なんで、バイバイするとやか?」
ときんじ君。
 この絵本を真ん中まで読んだら、ひっくり返して裏側から読んでください。すると、てつお君の気持ちがわかります。
 ───────────
 絵本の中でてつお君のモデルとなったA君と出会ってから20年近く経ちました。
 当時、納得できないまま地域の小学校から養護学校(現・特別支援学校)中等部に入学してきたA君は、「みんなと同じ中学校に行く」というのが口癖で、入学式にも参加できませんでした。しかし、本人に寄り添い、かかわり合う中で、養護学校にいだいていたマイナスイメージは少しずつ正されていきました。
 一方、小学校時代の同級生や近所の子ども同士の関係がうまく作れずに、日常的な出来事からトラブルへと発展することが多々ありました。小・中学校や関係機関とも連携し、当事者同士を会わせて話し合う場を設定したところ、一人の小学生が「A君は、何でバイバイ言いながら近づいてこらすとやか?」と素朴な疑問を投げかけてきました。A君は「養護学校の友だちも大事。だけど地域の友だちもほしい。」と言いました。(「あとがき」より)
         後藤 宏

2021.06 追加

「葦そよぐ 女性学習サークル50年の記録」

 一般社団法人葦の会

 

 

 地方都市・千葉県茂原市で女性たちが1960年に産声を上げ、ほぼ58年間の活動を終え解散した「一般社団法人葦の会」の創立50周年記念誌である。
 葦の会は、人間尊重を基盤とし、自己を磨き、社会の一員としてのより良い生き方を追求するため、「書くこと」「話し合うこと」を活動の軸においた。選りすぐったテキストを持ち、時間をかけて読んだり、多くの招聘講師からも学んだりした。会員の相互発表も盛んに行った。
 年齢も職業も違う女性たちは、他に宿泊研修、旅行、演劇合宿、泊まり込みでの小グループ活動、会報作りなどを通して、深い絆を育んだ。「同じ釜の飯」の力は大きい、葦の会は、それぞれの人生に根を下ろし、根を張り、自分で育てる力となった。
 この学びのおおもとには、深い人間愛、人間への鋭い洞察力、個別指導に優れた助言者藤井輝備先生の存在があった。「戦争の贖罪」を糧に、女子教育への熱い思いに貫かれていた。文集「渓流」68号、会報「葦」672号が最終号。
         田中明子

2021.06 追加

「凡声、鎌倉、続鎌倉、

 続々鎌倉、鎌倉50撰、凡声Ⅱ」

 著者 吉居一郎

 

 

 昭和53年6月から昭和63年5月まで11年に亘る鎌倉6部作である。それにしても著者の鎌倉愛と造詣の深さには脱帽、第1級の鎌倉ガイド本である。書き始めの頃は日本の高度経済成長期、著者もモーレツ社員として動き回っていた。処女作「凡声」口絵は森下泰助元救心製薬(株)社長の水彩画である。還暦を過ぎた頃来し方を振り返り次なる前進をするべく書き始めたのだろうか。そして昭和63年5月古希を過ぎ会社勤めを終えると同時期に第6冊「凡声Ⅱ」で終了している。その後記に「過去を語ると飛躍が止まる」の意気込みに燃え、突っ走ったことが夢のようです。
 鎌倉の遁世者となり江の島や逗子、葉山の沖を鳥瞰すると自然や旧蹟が少しずつ変貌しています。だからこそ緑豊かな鎌倉を愛し家族や友を思うのですと述べている。著者の幸せな人生に喝采。

 著者の吉居様は温厚なお人柄ですが、大陸での戦争に出兵し、厳しい環境のなかで生活され、運よく生還された方です。お住いの鎌倉をこよなく愛した方でした。鎌倉情報の発信に努め、多くの知己を鎌倉に招待されました。逗子開成高校生の悲劇や、逗子の言葉の由来、三浦按針の話など、他では聴けない情報を聞かせてもらいました。
         花岡光男

2021.05 追加

「最涯(さいはて)の島 番屋の物語」

 著者 藤井輝備

 

 

 明治、大正時代の、ニシン漁黄金期の北海道利尻島が舞台で、網元一家が島で暮らす波瀾万丈の物語です。網元の幼い孫だった著者は、その世界をつぶさに見、記憶しています。これは生活史・文化史であり、家族史であり、ニシン漁の記録であります。

2021.05 追加

「樺太 戦火逃れて」

 著者 藤井輝備・藤井まさ子

 

 

 

 植民地樺太の恵須取(エストル)での戦争体験を、共に教師だった著者夫妻がそれぞれ赤裸々に描いた、「戦争とわたくし」・「爆風-旭川にて」の二つの記録です。最大時40万人が住んで栄えていた、南樺太。ソ連の侵攻によって難民となって逃げ惑う人々、戦死した人々、被害に遭った女性たち、ソ連抑留を強いられた人々。親にはぐれた中学生らを引率しての樺太山脈100キロの逃避行も……。

2021.05 追加

「戦争に行った叔父-緑川正吉の記録-」

 著者 田中明子

 

 

 

 北支で初年兵教育の仕上げとして、中国人捕虜を「刺突」させられた「俘虜処刑」。「ルソン島戦記」は、フィリピン・ルソン島での特攻隊員としての記録。さらに「特別攻撃隊員追想録」は、特攻隊として空に散っていった戦友たちの記録。

2021.05 追加

「祖父母の記」

 著者 田中明子

 

 

 

 明治の家制度のもとに生まれ育った、私の祖父母が歩んだ足跡を追って記したもの。無名の庶民が置かれた場所で、どう生き、どう死んだのかを時代背景とともに描いた。
 一般社団法人葦の会出版委員会

2021.05 追加

「乗り物放浪記」

 著者 木下昭次郎

 

 

 

 「七つ下がりの雨と四十過ぎの道楽はやまぬ」という格言がある。今なら夕方4時過ぎに降り出した雨と還暦過ぎての道楽は止まらないといったところだろうか。著者のクルマ遍歴は13歳の自転車に始まりバイク、クルマと対象を替えて60歳までに125台以上乗り続けているから筋金入りである。
 並みの者が真似しようと思ってもできるものではない。夢を見る前にジャンボ宝くじ売り場に並ぶ必要がある。著者はいくつもの条件を満たした者しか到達できないたいへん稀有で幸せな人である。失礼ながら婿養子という立場で達成した著者も偉いが、それを許した奥様の度量の大きさに敬意を表する。
むやみに乗り物にのめり込んだのではなく、長く教職を勤めた後は妻の保育園経営を助け2人のご子息を立派に育てるなど父親としての責任をパーフェクトに果たしていることを知れば驚くばかりである。
 今後どんな革新的乗り物が出現するか楽しみだが、著者は新たな遍歴を始めるだろう。信じる者は救われる。著者が望む通り数十年後寿命が尽きる時は、阿弥陀来迎の蓮の葉台座に鎮座し、煩悩具足のまま極楽浄土へ一直線に往生していくことだろう。その時はどうぞ安全運転で。

2021.05 追加

「黄櫨70号記念号」

 人生史サークル黄櫨の会

 

 

 

 八女市に事務局を置く人生史サークルの発行である。手にしてまず表紙絵に驚いた。梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ日本洋画界の巨匠坂本繁二郎の作品をさらりと使っている。画伯が八女市名誉市民とは云え会がそれほど信用されているのだろう。更に貫正義県文連会長、麻生渡元県知事、安部龍太郎直木賞作家などのお祝いのメッセージが並ぶ所に24年という継続の力を証明している。学習会の講師3名も自分よりかなり高齢の会員たちを励まし思いやりに満ちたエールを送っている。会員32名の原稿は多岐にわたり質量ともに重みがある。人生一炊の夢という通り人が一生で経験することは限られる。32名の貴重な人生を読むことで読み手は自分の人生を何倍も豊かにすることができる。「学校に学びし年は少なくとも書籍に学びぬ長の年月」主婦の友創始者石川武美の言葉を思い出す。

2021.05 追加

「自分史 百姓一代」

 著者 中村スミ子

 

 

 

 これぞ自分史である。読み終えた時、秋空の下中村さんご夫婦が心血注いで育てたミカン園にいるような爽やかな気持ちになった。気負いも誇張も飾りもなく、自分の歩いた長い道のりを驚くほど冷静に緻密に綴られている。
 戦後の耐乏生活から復興、成長期の山村の暮らしがよく分かる貴重な生活史、経済史になっている。世の中どんなに変わろうと夫婦相合す家庭があれば子はまっすぐ育つ。なぐられても親の愛情は子に伝わる。子育てには与え過ぎたりかまい過ぎないことの大切さなど教えてくれる。著者にとって祖父母、両親、義母、周りの人全てが人生の師であった。中でも父菊藏さんの教え「世に出て立派に生活していけばそれで良い。学校は生活する為の勉強をする所だ」
母チカエさんの教え「親孝行とはお前たち(子供)が幸せに暮らしていくことが一番だ」は胸を打つ。人の何倍も働いたであろう著者は、何にでも挑戦する好奇心旺盛な人生を楽しむ達人でもある。
 
銀婚式から30年の間にハワイ、中国、韓国をはじめ北海道から沖縄、種子島まで二人で30数回旅行している。趣味も20年の間に水墨画、俳句、刺し子、郷土史、大正琴、体操教室などを体験しているが、このように自由な時間を持つことは自分を信頼し協力してくれるご主人菊雄さんのお陰だと感謝の気持ちを忘れていない。
 夢追わぬ 齢となりけり たそがれの 美しくあれ 思い残らむ
 愛でし子等 辺地となりし 古里を 永久に忘るな 美わし山川
 在りし日の 父母偲ぶ 彼岸花 
 生きぬきし 花真っ盛りの 金婚式
 生きざまの 織りこみに似た 柿落葉
心に染みた著者の作品を紹介して菊雄様スミ子様お二人の今後の安穏な日々がいつまでも続くことを願っている。

2021.04 追加

「白秋期を愉しく」

 著者 中紙規良

 

 

 

著者よりのメッセージ
 この本は私にとって2冊目のエッセイ集になる。素人が2冊目となると何か誇らしい気持ちです。ものを書き始めたのは30年ほど前から、その頃は自費出版本を出すなど思いもしませんでした。最初の切っ掛けは息子の一言でした。50代になって断捨離でもするかと思いつつ今までに書き綴ってきた落書き紛いの文章、ファイル5冊になっていましたが、それらを読みながら整理をしていた時、近所に住んでいる息子が来ました。
「これ、パパの想い出のファイルだけどパパが死んだらどうする?」
「捨てる!」
 なんとつれない返事、これでは自分で何とかしないと駄目と決断した。立派な本になった、外見だけだが。それからは文才も無いのに“書くことが大好き”になった。そして第2集、この本の出版となった。テーマも決めた。「音楽と難聴」。私は子供の頃から耳の聞こえが悪い。40代になってそれが急速に悪化、両耳に高価な補聴器を入れているが効果がない。私はクラシックの趣味は長い。聴くことだ。子供の頃のSPレコード時代から。手回し蓄音機。
 
バカでかい音を出して聴く電蓄など。67歳からはピアノも習い始めた。それまで触ったことも無かったが、今まで9年間毎日休むこと無く、練習につぐ練習を重ねた。難聴は2年前から益々怪しくなった。自分の弾くピアノの音が耳鳴り伴奏つきだ。ミスタッチをしても分からない。毎日傍で下手な我がピアノ練習を聴いている妻から“音が違う”と指摘されるほどである。
 情けない、そして今や“令和のベートーヴェン”と嘯いている。前述したがコンサート会場通いはこの10年間で480回を超えた。メトロポリタンオペラや、ウイーンフィルの来日公演なども、更には日本で一番古いと言われている草津国際音楽アカデミー&フェスティバァルには8月の2週間は妻と一緒に滞在して初めから最後までの聴衆になっている。耳の聴こえるこの時期に音楽祭の批評も書いて残そうとこの本では特別章も設けた。目次では訳の分からない音楽用語も使って。通用するかしら?
 日常の出来事とそして素人の音楽談義を書いてみました。誰でもすぐに書けます。やってみませんか。

2021.04 追加

「母を恋うる記」

 著者 木下昭次郎

 

 

 

 父ちゃんからおやじと呼ぶようになる頃から息子と父親の間には見えない壁のようなものができる。対して母親には意外と何でも話せる雰囲気が漂う。決して甘えるわけではないが私の場合そうだった。
 しかし子を思う母性本能の発露だろうか、我が子のためなら鬼にもなる。日頃は慈母観音のような著者のお母さんも時には化身となって何度も息子の窮地を救ったことだろう。
 著者が幼少の頃の商家は大世帯。そこでの主婦は嫁として母として働き手の中心となって身を粉にする日々である。一方子どもの成長と商売繁昌という夢をご主人と共有できることは忙しい中にも充実した幸せな時期でもあったろう。
 これまで大切な近親者を看取ってきた筆者には還暦を迎えて木下家へ養子に入るまでの28年間を過ごした実家川口家での日々が強く蘇るのだろうか。
 
 この本はただ母を恋うるのではなく川口家のルーツを辿り一族の絆を確かめる本となっている。
 文中の会話は優しい「柳川弁」で書かれ、当時ヒットしていたさだまさしの「無縁坂」や竹内まりやの「不思議なピーチパイ」などが挿入されていて当時の胸の鼓動が懐かしく感じられる。奥様との初デートの時の「養子」に対する双方の本音のトークがユーモラスに披露されている。
 29歳で保育園長になられた奥様の著者に寄せる信頼と家族愛が随所にちりばめられた好書である。
 セツ子母との穏やかな日々が一日も長く続くことを願っている。

2021.04 追加

「癌との闘い  闘病記」

 著者 國友浩

 

 

 

 競泳女子池江瑠花子選手の白血病からの劇的復活優勝と涙のインタビューに多くの国民が感動した。
 長引くコロナ禍で閉塞した日本社会に久しぶりに明るい話題となった。とりわけ癌治療中の患者さんには苦しくても頑張ればきっと報われるという希望を与えてくれた。この本の著者國友さんも我が意を得たりであろう。著者は発刊に際して次のように書いている。
 病気とは無縁と思っていた私が、2012年の上腸間膜動脈解離を皮切りに、病院の常連になろうとは夢にも思っていませんでした。元気で活動していた時に、突然の死の通告を受けた時の気持ちは、あまりの唐突さにうろたえることさえできず、逆に淡々と自分の死と向き合いました。人は死に向かい合うとどんな気持ちになるのか、自分でも驚くほど克明にメモを取っていました。この記録を「たのしい社会メーリングリスト」にアップしていただいたところ、たくさんの励ましのメールやお手紙をいただきました。
 
 このみなさんの励ましが私の生きようという気力を後押ししてくれました。そんなみなさんに何かお返しが出来ないかと考えたのがこの闘病記でした。元気に活動されているみなさんに、病気の治療はこんなことがあるよと私の体験を知ってもらい私の二の舞をされませんようにとの思からです。少しでもみなさんのお役に立てたら幸いです。
 病に立ち向かう最強の切り札は本人の生きたいという気力ではないだろうか。その気力を周りの仲間の応援が奮い立たせてくれる。國友さんは元気な頃巾広く地域活動にかかわり、病を得た後も積極的にボランティアに参加している。本人は病院の常連さんと自虐しているが発病して10年、今もエネルギッシュに動き回る姿を見ればとても信じられない。今後も癌に苦しむ多くの人たちに病と共存しつつ、癌に打ち勝つ心構えなどを伝授してほしい。

2021.04 追加

「九州の山 ジイジひとりある記

─四苦と山に活かされて─」

 著者 虻川圭實

 

 

 

 老いゆく友に 自然・山を愛する人に 単独山行55年のうち、「四苦」と山の息吹に癒され、活きる力をもらって歩いた69歳から75歳までの山行記録。
生:無常への悲嘆。
老:「自分では若い時と同じように動いているつもりでも身体が付いてきていないことに気が付いていない。それが齢!そのことが予期せぬケガを招き、身体を痛め、とんでもない状況に陥ることにつながる。それが分かっていても対応できないのが齢!」→滑落・転倒と大ケガ。
病:大病と登山。
死:「当たり前でないのに行きている。」
活:「山で出会う無垢の爽やかさや喜びの感性、心に清浄さを与えてくれる力は、山のいたる所で微笑んでいながら、説明も理解もできない不可思議さに覆われている。」
「一週間ほど前から速度を上げて歩くようにした。なんと身体はついてくる!人間の体ってすごい!」=75歳になって。
「人間のヴァリエーションの豊かさを教えてくれるもう一つの清水山山行。」
 辿った九州の山は、軽いコースからハードなコース、マイナーな山やコースまで。200回の単独行。

2021.01 追加

「卒寿を迎える人生の思い出」

 著者 満枝敏行

 

 

 

 昭和9年生まれ。88歳を迎える著者はまさに戦争の時代の申し子である。小学校入学が大東亜戦争開戦の年である。戦時下で育ち、敗戦後の混乱期を苦労を重ねたことがその後の人生に役立った。高校は夜学に通い、困苦欠乏の大学生活をひたすら忍耐努力で乗り越えてきた。卒業時「自衛隊」が「県庁」かという職業の選択は人生最大の岐路であったと振り返る。決断した陸上自衛官として順調にキャリアを積み重ね2佐として大隊長まで努めた。著者の偉い所はその後の生き方である。教員免許を取得し退官後14年間高校教諭として若者の教育に携わり、退職後は地域の行政区長、同校区代表となり住民の協力を得て安全安心の町づくりを通して数々の地域貢献をしている。あとがきに「両親、先祖、故郷の人々に感謝する。妻をはじめ多くの人の支えが心のよりどころでありすべてが人生の指南役であった。決して自慢話にならないよう客観的に真実を記録した」と述べているが実直な著者の人柄がにじみ出ている。昔の人は偉かったことを教えてくれる自分史である。