暮らしと方言の色揚げ

内山一兄・郷田敏男

 
 
 
 
 
 
 

なば山あがり


現在は地場の松茸は皆無です。

庶民には高根の花になっています。

ちなみに、明治三十一年の旧川崎村の年産七二〇斤(約四三二キログラム)、

同四十一年の旧忠見村での産額二三二〇斤(約一三九二キログラム)と記録にあります。

この丘陵地で二屯近くの松茸生産とは、想像もつきかねる特産物だったのです。


松材は戦時中には、石炭増産の至上命令で炭坑の坑木として乱伐され、

戦争末期には航空燃料の不足から松の肌を刻んで松根油まで絞り取ったものです。

また戦後は、復興の原動力として石炭増産の掛け声で、

松材の坑木は国鉄矢部線を通じて続々と搬出されました。

あまつさえ、松喰虫の被害で松山は全滅、

もう再び松茸のあの馨しい香りを嗅ぐことはできないでしょう。

 

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